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長崎道の金立SAで休憩し>>>穂波東出口>>>旧伊藤邸 |
![]() 漆喰の壁にはちょっとユーモアーな猪(私の干支)が浮き出ていました |
![]() 旧伊藤伝右衛門邸 伊藤伝右衛門は、若いころは魚の行商や船頭など職を転々としながら、赤貧生活を続けますが、 やがて父と手掛けた炭鉱事業が時流に乗り、のちに“筑豊の炭鉱王”と呼ばれるまでになります。 |
![]() 順風満帆と思えた伝右衛門でしたが、明治43年に長年苦楽を共にした妻ハルが45歳で病に倒れ、他界してしまいます。 |
![]() 玄関に入ると正面に飾ってある雛人形が迎えてくれます。 |
![]() 玄関左にあるあ応接間:アールヌーヴォー調のマントルピース、イギリス製のひし形のステンドグラス |
![]() 一畳たたみを敷き詰めた長い廊下 |
![]() 花子と白蓮の接点・・・白蓮の数奇な人生が垣間見える! 赤毛のアンにちょっとなりきる? |
![]() 大きなガラスがはめ込まれた戸! |
![]() 端午の節句展の開催をみたくて訪れました。 豪華なおひなさまが数多く残されていました。 |
![]() 1F 旧伊藤伝右衛門邸は、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門と歌人柳原白蓮が過ごした邸宅です。 |
![]() 2F 特に白蓮の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や 銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、白蓮好みに仕上げています。 |
![]() 柳原白蓮の歌 |
![]() 妻ハルが他界した後、歌人・柳原白蓮と再婚します。 しかし、その一方で伝右衛門は昔から続く女遊びが収まらず、 さらに25歳という年の差もあり、二人の心には結ばれることのない溝が生まれていきます。 |
![]() その後、本邸が舞台となる運命の女性・柳原白蓮は本名をY子(あきこ)といい、Y子は大正天皇の従妹にあたります。 当時の柳原家は資金難に陥っており、Y子は兄の柳原義光が貴族議員に出馬するための資金が必要だったため、 炭鉱王の莫大な資金と引き換えに「売られた」政略結婚として当時騒ぎ立てられました。 |
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![]() 折角なので! |
![]() 昔のひな人形(享保雛)が並ぶ |
![]() 伝右衛門は白蓮を迎え入れる為、改築を行います。敷地面積約2300坪に、部屋数25という広大な家屋を設けます。 しかも、その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという、細やかな美の技法に満ちています。 |
日本で初めて『世界記憶遺産登録』 絵師山本作兵衛氏 ![]() 自身が筑豊の炭坑で体験・見聞したことを基に描かれた炭坑記録画 |
![]() 代表的なものでは、フランス人権宣言、アンネの日記、ベートーベン第9交響曲の草稿などが登録されています。 |
![]() 体験者のリアルさが克明に記録された一部分が、 倉の中で展示されていました。 |
![]() 白蓮35歳のときに、7歳年下であった雑誌「解放」の記者・宮崎龍介と恋に落ちてしまいます。 |
![]() 炭鉱王伝右衛門を捨て、7歳年下の愛人との駆け落ちするというスキャンダラスな出来事に世の中は騒然となりました。 その後、伊藤邸に白蓮は戻ることなく、結婚して10年、すれ違い続けた二人の恋物語も終わりをむかえました。 |
![]() その後、伝右衛門は叩きつけられた絶縁状に対し「末代まで一言の弁明も無用」と口を閉ざし、財界人として 精力的な働きを続け、伊藤家育英会の奨学金制度なども設けて後進の育成も図り、その生涯に幕を下ろします。 |
![]() 2F白蓮の居室より伝右衛門と白蓮のいなくなった庭を、ガラス越しに見下ろす。 |
![]() 邸も売却され取り壊すはずだったが、市が保存することになり見学できるようになったそうです。 |
![]() Pm3:40〜5:00 庭をじっくり見てる二人に、係り員が「すいませ〜ん!閉門でーす!」 |
![]() 伊藤伝右衛門邸前は長崎街道です。 駐車場脇のこんもりした森はボタ山だろうか? |
![]() 空港近くに戻り、レンタカーを満タンにして夕食です。 ボタ山ならぬぼた餅・おでん・かつ丼で満タン! |
![]() いろいろな発見があった旅を終え、北九州空港を後に・・・! |
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次は何処の知らない町へ行こうかな!